川畑教授の楽寂静ノート12:常に初心者の心持でいること

  先週末、糸島半島のある漁港へアラカブ(オコゼの類)を目当てに、アオイソメ(ゴカイの類)を持って釣に出かけた。午前10時過ぎ、空は薄曇りで潮は満潮に近く、堤防はさざなみで洗われていた。堤防の先端には、ルアーフィッシングの男性釣師がひとりと、漁師らしい夫婦がメバル釣りに興じている。男性釣師の足元に目をやると、福岡市指定のごみ袋から、鱸の尾鰭が2本見えるではないか、「えっ、いま釣れたのですか」と漁師夫婦に尋ねると、「今、釣りんしゃった」。私はその時、まったく臆することなく、初心者として自分も試してみようと思った、釣れなくてもともとなのであるから。

 

 私の持ち歩く道具の中に、研究室の院生から勧められたルアー竿と疑似餌(レンジバイブ70ES)を常備してはいるが、一度も大物など釣ったことはない。しかし、今、堤防の先端付近で鱸が釣れているのであれば、おそらく湾内にも腹を空かしたやつが入り込んでいるような気がした。湾内に向けて、一、二投すると、「ドカーン」というショックにも似た引きがあった。「きた~!」と思わず声をあげながら、空回りするリールをなんとか手繰った。はたして海面に浮いた魚体は巨大で、そのうごめく様子は怖くさえある。男性釣師のタモをお借りして堤防にあげてもらった(掲載写真)。銀色に輝く70cm 近くはあろうかという、みごとな鱸であった。幸運を使いすぎるのも惜しく思われたので、さっそく釣り好きの教授たちや家族に釣果の写メを送信し、獲物は車のトランクにあるクーラに押し込んで帰宅した。アオイソメは使わずじまいだった。

 

 帰宅すると、感動しきりの大学院生の娘と協力して、手持ちの釣りのハウツー本を参考に魚拓をとり、ユーチューブの「鱸のさばき方」をまねて三枚におろした。その晩から家族で3日間もかけて、おいしくいただいた、鱸に感謝!「まさしく、ビギナーズラックだった」、私が何気なく口にすると、「いやいや、シアトルではたくさんのルアーをなくしたでしょう、一匹も釣れなかったし」と、カミさんの返答があった。「そうか」、四半世紀も前のこと、ワシントン大学留学中に、シアトル近郊の川釣ライセンスを購入して、休日毎にルアーを川底に無駄に引っ掛けていたことを思い出した。ルアーフィッシングに関しては、まったくのビギナーではなかったのだ。

 

 初心者が経験者にも劣らない成功をなしたとき、「ビギナーズラック」として片づけられることが多い。しかし、簡単に片づけられない、いくつかの真実があることに気づかされる。初心者は、経験に邪魔されて選択の幅をせばめることもなければ、成功しなければならないという「プレッシャー」や「不安」もない。そればかりか、これらのすべての束縛から解放され、その自由なチャレンジ精神により、成功を収める可能性に溢れているのである。科学研究の豊富な経験者であっても、真理探究に向けて「初心者の心持」を忘れることなく精進することが必須である。無意識下で、無欲に行動しているときこそ、長年の経験がプラスとして働き、功を奏するのであろう。道元禅師は、「今、門を叩いている入門者こそ、仏に最も近い」と教示されている。

2013年4月4日