29 思い出 (その1)

 今年も2月下旬となり、春一番が吹き荒れる季節を迎えた。曜日の感覚を忘れてしまわないように、毎朝、スマホのカレンダーとスケジュール表を確認している。最近、スマホを使って確定申告の電子申請書を提出したが、その作業は評判ほど簡単ではなかった。マイナンバーカードとの連携のための保険会社からの情報ダウンロードを含む前準備は、手間と労力を要する。バカ長い文字や番号の入力は骨が折れる。来年はカード読み取り装置を購入して、パソコンからキーボードで入力したほうが快適かもしれない。スマホの登場によって私の生活様式は一変し、四六時中スマホを肌身離さず携帯しなければならなくなった。世界中の友達や遠方にすむ子供たちと、オンタイムでビデオ会話ができる。恐ろしいほど便利だ。一方では、スマホを紛失する不安に常にさいなまれ、街角では歩きスマホする輩が横行して危険極まりない(Look where you are going!)。

 

 年齢のせいか時の流れが加速度的に速くなり、昔のことを思い出すことが多くなった。19631122日、ジョン・F・ケネディの暗殺事件は、日米間の衛星中継を介して迅速に伝えられた。私は当時6歳で、鹿児島県大隅町の岩川保育所(雪組)の園児であった。シーソーに乗りながら、「アメリカは大変なことになった」と数人の園児と語り合った。小学1年生の時、兄2人に母を加えて4人で自宅の裏山に上って、日の出の観察をした。長兄の理科の宿題だったが、山の端(は)から顔を出す赤い太陽に感動した。夏は、昆虫採集に精を出した。枝にとまったオニヤンマの大きな目に魅了されて、捕虫網を振ることも忘れた。長兄が入手したジャコウアゲハの幼虫を、ウマノスズクサを餌にして羽化させたこともある。小学校の図書室にあった昆虫図鑑をほとんど暗記してしまった。秋には、家族みんなで裏山を散策しアケビを収穫した。あれは、おいしかった。高学年になると、自宅近くの牧場にある八合原遺跡から表面出土する縄文中期の土器・石器の収集に夢中になった。その土器の文様は様式化されており、専門家の仕事であることは一目瞭然であった。縄文土器といえども、個々人が必要に応じて作ったものではないのだ。

 

 中学時代は天体観測に専念し、宇宙の桁違いの広さ・深さを思い知らされた(参照:楽寂静ノート4)。夏休みは、自宅の空き地に廃木材や萱を使って小屋を作り、寝泊まりした。それに飽き足らず、次兄と自転車を漕いで、20数キロ離れた夏井海岸のキャンプ場に行き、昼は魚を釣り、夜は飯盒を焚いた。真っ青な海や岩礁を泳ぐベラの群れ、岩を這うフナムシ、そして天から降ってくるようなクマゼミの声は忘れられない。中学・高校は、弓道部に所属した。国鉄で20分ほど行ったところに、弓矢の国内生産量トップの都城があった。甲南高校時代(フォト23)は、鹿児島市内に出て寄宿生活をしていたが、週末には姉の運転する自動車で父母からの食料の差し入れがあった。

 

 高校の授業で思い出深いのは、選択科目の授業で、「化学」担任であった伊藤政夫先生から「薬丸自顕流」の手ほどきを受けたことである。後に、大学で「生化学」を専攻することになったのは、伊藤先生のご薫陶のお陰でもある。伊藤先生の薬丸自顕流の蜻蛉(トンボ)の構えは、気品とともに殺気にあふれていた。よく知られた「東郷示現流」は、薩摩藩主とその重臣たちや上級武士に伝わった剣法である(始祖:東郷重位)。一方、薬丸自顕流は東郷示現流を取り入れながら、野太刀(のだち)の技を元にして、防御を削って攻撃性を高めたもので、明治維新や西南ノ役の現場を支えた薩摩兵の一撃必殺の剣法である(始祖:薬丸兼陳:外部リンク6)。「抜きで切り上げた一太刀で一人目を、返す刀で即座に二人目を斬れ」と教わった。「抜き」とは、かがみこんだ左腰に差した刀を下から抜刀することである。抜即斬、一日千本の練習の相手は自分自身である。横木打ちの練習には太い天然木を、抜きの練習には特製の太い木刀を用いた。

 

 大学に入学するとテニス部に所属して、球拾いの業務(?)に駆けずり回りながら、真っ黒に日焼けするまでテニスに集中した。結果、前期の単位をほとんど落としてしまい、クラス担当教授との面談でお目玉を食らい、テニス部を退部、痛恨の極みとなった。それから、教養部正門前の質屋に飾ってあったギターを虎の子の2万円で買って、独学で弾き始めた。私は、小・中学校で文部省唱歌の音楽教育しか受けていないが、今でもギターを楽しく弾いて歌っている(フォト4)。2018年の秋には、娘の結婚式でギター演奏を披露したところ、学会での自身の招待講演よりも多くの喝采を浴びた。将来の息子の結婚式では、私は「長話」の役で終わるのだろうか、楽しみである。大学2年の夏休みから壱岐巡検の旅を開始した(楽寂静ノート8)。その後、45年にわたって毎年、壱岐を訪問し、多くの発見や思い出を学生・院生・友人、そして「太公望」、「かねや別館」、「壱岐の花酒造」の皆様から頂いた。

 

 大学時代で最も記憶に残るのは、4年時の教育実習である。出身高校や福岡市の有名県立高校には断られたが、同級生であったM君(西福岡高校出身:現県立講倫館高校)の推薦のお陰もあり、西福岡高校に教育実習生として受け入れて頂いた。挨拶に伺った際の校長先生は、「当校で、保健体育以外の教育実習生を受け入れるのは初めてです」と驚かれていた。生物担当のS先生には、大変お世話になった。S先生から、「生徒がうるさくて授業にならないかもしれませんが、お好きなように授業してください」といわれて、単独で商業科の生物を担当させていただいた。予想に反して、スムーズに最初の授業が終わって職員室に戻ると、クラスの生徒たちが教科書を手に集まってきた。怪訝に思ったS先生が彼女らに尋ねると、「川畑先生のサインが欲しい!」とのことだった。その後、私の授業にはS先生を含め他の科目の先生方が、授業参観に訪れて下さった。その年の夏休みには、同校生物部への指導協力を依頼された。S先生から合宿キャンプにも誘われて、ギター持参でキャンプファイヤーを囲んだ。

 

 私の教育者としての原点は、西福岡高校での教育実習にある。教科書にサインを頼まれたのは、後にも先にもこの時と、九大を退職する際に「生化学I」を受講した学生の希望に応じて、自費で買い集めた私の蔵書を無料で配布した時以外にはない。果たして、止めどもなく過去を振り返ったが、親兄弟、私の家族、そして多くの学生・教職員の方々のご協力があったからこそ、現在の自分が形成されていることは明白である。心からの感謝の意を表したい。

2024223日)