楽寂静ノート21:なぜ菅原道真公は学者生活から離れて右大臣まで登りつめたのか

 昨年の11月、ストラスブール大のR教授の訪問を受けた(フォト10)。彼のセミナーに続いて、研究室の若手や院生らが研究成果を発表し、その晩はもつ鍋パーティで盛り上がった(フォト11)。R教授は、日本の風土、旅館や温泉など気に入っておられたので、翌日、大宰府天満宮へ案内した。西鉄天神駅から太宰府駅までの車中、道真公や天満宮の由来について解説した。天満宮は受験シーズンも近づくなか、アジアからの観光客も加わって大盛況であった。参道奥の西高辻家門前にある道真公の歌碑「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」や牛の銅像、拝殿前の「飛梅」を知る人は多い。しかし、R教授が最も感動したのは、境内の樹齢千年を超える幾本かの巨大なクスノキである。ストラスブールは鬱蒼としたシュヴァルツヴァルトに近く、生来、森の木々に囲まれて生活されているからであろう。

 

 道真公は、845年に奈良で誕生し、862年に文章生(もんじょうしょう)、867年には文章得業生に選出され、877年には学者の最高位である文章博士に就任している。父の是善(これよし)公(812-880年)の没後は、私塾の山蔭亭を継承し、充実した学者生活を送られたと思われる。しかし、その後、宇多天皇の信任を受けて、蔵人頭(891年)、遣唐大使(894年、自らの建議により廃止)、権大納言右近衛大将(897年)などの重職に任じられ、宇多天皇から醍醐天皇への譲位後には右大臣(899年)まで登りつめ、道真公の長女は宇多天皇の女御、三女はその皇子である斉世(ときよ)親王の妃となった。結果、左大臣藤原時平の讒訴を引き起こし、901年正月25日大宰権帥として左遷、903年2月25日薨去された。学者出身の右大臣就任は、吉備真備(695-775年)に次ぐもので、宇多天皇の厚い信任があったにせよ、道真公をそこまで駆り立てた原動力は何であったのだろうか。

 

 過日、あるテレビ番組を見ていると、次のような道真公の母君の短歌紹介があり、驚きと感動を覚えた。菅原の大臣かうぶりし侍りける夜、母の詠みはべりける、「ひさかたの 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」(拾遺集)。月に生えているという桂も折るばかりに、菅原家を隆盛させてほしいという意味で、道真公15歳の元服の夜に、道真公の将来を嘱望したものである。唐の酉陽雑俎(ゆうようざっそ)によると、月の宮殿には、500丈の高さを誇る、切っても切っても生えてくる桂(中国ではモクセイのこと)があって、呉剛という男がその木を永遠に伐採しているという。また、「桂枝を折る」には、科挙(官吏登用試験)に合格するという意味もあるらしい。私には、この知的で過大ともいえる母君の期待が道真公の分不相応の官位官職昇任の潜在的な動機づけになったのではないかと思えたのである。

 

 私の父母は鬼籍に入っているが、生前、母が私に「あんたは本当に楽(らく)だった」と話していた。何が楽だったかというと、私に対して「勉強しなさい」と言ったことが一度もなかったというのである。確かに、私にも言われた記憶はない。小・中・高校時代、おそらくその後も含めて、私の勉学の動機づけは、成績表や成果を見聞きして喜ぶ父母の顔を見たかっただけだったのかもしれない。その意味では、私は、些細な人生の楽しみのひとつを失って久しいのである。後日、R教授から返礼の電子メイルがあて、道真公の史実を鑑みて、今後も研究に没頭したいとの旨であった。

2017年1月6日