30 思い出 (その2)

19891991年の2年間、米国ワシントン州シアトル市にあるワシントン大学(the University of Washington, UW)の生化学教室(Earl W. Davie教授)に日本学術振興会の海外特別研究員として滞在した。本事業は、1987年の春に第1回の募集が開始され、全分野の定員は合計でわずか10名であった。当時の応募条件は、博士の学位取得者であること、大学や研究機関の常勤スタッフであることが必須であった。私は理学博士を取得後、1986年の秋に九州大学・理学部・生体高分子学研究室(岩永貞昭教授)の助手に着任していたが、そのひと月後には学術振興会の日米科学共同研究事業の研究者として、UW生化学教室に3ヶ月間の予定で滞在しており、すべてが新鮮で驚きの連続であった。海外特別研究員の募集に対しては、日米の両教授からのご推薦も頂いたので、まったく期待することなく応募することになった。

 

ところが、1987年の秋には書類選考を通過したとの知らせがあり、金沢で開催の日本生化学会大会を途中で抜け出して、東京の面接会場へ向かった。面接の30分間は、多くの選考委員から応募内容とこれまでの研究に関する質問に加えて、事務官から私的な質問や事務的な確認事項も受けた。よほど応募者が少なかったのか、結果は合格であった。その後、理学部での長期海外出張の申請や在福岡米国領事館での渡航手続き、さらには研究室の諸事の引継ぎなどが続き、UWへの出発日は、渡航期限ギリギリの1989228日となった。UW滞在中の出来事は、幾度も本ウェブサイトで取り上げた(楽寂静ノート:36791219)。今回は、最も記憶に刻まれている事を書き出してみたい。

 

「生まれそうだ」という家内の声に起こされた。壁時計は、午前3時を示していた(1990329日)。すぐに家内を車に乗せて、Down TownにあるSwedish Hospitalへ向かった。車はステーションワゴンで、$6,000で購入したターボ付き四輪駆動のSUBARUである。雪道や凍結路でも安全に走行できる優れものだった。病院の守衛さんに、「産室をすでに予約してある」と伝えるとすぐにゲートを開けてくれた。さらに、玄関で女性スタッフに同じように事情を告げた。案内されたのは、20畳はあろうかという高級ホテルなみの部屋で、手術も可能なベッドと、奥には付き添い用のテーブルと椅子があり、浴室・トイレも完備されていた。夜勤のナースが対応に現れて、「まだ生まれないだろうから、ゆっくりしてくれ」といって、2人分の朝食をテーブルに運んできてくれた。家内は病室の服に着替えたが、私は普段着のままで、手の消毒やマスクなど着用することはなかった。何の問題もなく病院にたどりつけたことで、心からホットしていた。窓の外は、まだ真っ暗だった。

 

何時間が過ぎたのだろうか、朝勤のナースがやってきて、「家内の担当医と連絡がつかない」と慌てていたが、しばらくしてTシャツ姿の担当の産婦人科医が出勤してくれた。どうやら、担当医は休暇を取るつもりだったらしい。ナースは、「今日は、必ず生まれるから休暇を取らないでくれ」と彼を説得していた。その担当医が白衣に着替えて間もなく家内は産気づいて、周囲が少しあわただしくなった。ナースから私に「ハッ、ハッ、フー」のタイミングを取ってくれと言われたので、素直に従った。担当医は、「お前はUWで生化学の研究をしているから、このくらいのことはできるだろう」と言って、滅菌グローブもしていない私にハサミを手渡したので、言われるままにへその緒を切った。その時のハサミから伝わる感触は、今でも鮮明に思い出すことができる。娘の誕生であった。壁時計は1040分、窓の外には星条旗がはためいていた。

 

その後、ナースは飲料水の入った小さな哺乳瓶を私に渡して、「水を飲ませたら」とバスタオルで巻いた娘を抱かせてくれた。家内には「シャワーを浴びてゆっくりしてくれ」と指示したが、家内にはそれほどの体力は残っていなかったと思う。ただ、家内は「お腹がすいた」といって、明け方に夜勤のナースが届けたくれた2人分の朝食をたいらげてしまった。産婦人科医は、「これからは小児科医の担当になるから、知り合いの医者を紹介しよう」と提案したので、少しでもよいから日本語を話せる小児科医をお願いした。また、「この病院の病室代はバカ高いので、明後日の朝には、母子ともに連れ帰ったほうが良い」と示唆された。ナースからは、「帰宅の際にボランティアは必要か」と問われたので、何のことか要領を得なかったが、必要であることを伝えた。私にも、娘と同じ標識のついたプラスティックの腕輪をつけてくれた。少しだけ誇らしかった。

 

病室で帰宅の準備をしていると、ひとりの女性ボランティアがやってきて、私といっしょに荷物(飲料水入りの瓶やその他の必需品を大量に支給された)を私の車まで運び、また真新しいチャイルドシートに娘をセットしてくれた。本当にありがたかった。最後に、ボランティアも含めて持参したカメラで記念撮影をした。その日は、快晴で暖かかく、UWのキャンパスの桜は、満開だった。翌日、研究室へ行くと、Davie教授からは、「今日から3ヶ月は休暇にするから、大学に出勤しないように」と厳命された。その後、在シアトル日本国総領事館で出生届けを出した。その際に、クレジットカードのような出生証明カードの作成を何枚か注文した。

 

退院からひと月後、Swedish Hospitalからナースが自宅に派遣され、娘の健康診断があった。娘は布の袋に入れられて、バネばかりで体重を計測されたが、その様子が大変に微笑ましかった。今となっては、その様子を写真に記録できなかったことが心残りである。一方、紹介された小児科医にもたいへんお世話になった。彼は、大学時代に日本語クラスの単位を取ったと話していた。ある時の定期健診の際に、私が「娘の様子はどうですか」と尋ねると「普通です」と日本語で答えたので、「正常です」と表現しほうが適切であることを指摘した。「Normal」を和訳したのだろうが、言語のニュアンスの違いを理解するのはどの言語も難しいものである。海外特別研究員時代は、日本人および米国人研究者、さらには上述した方々を含めて多くの方々から、親身なるご協力とご支援をいただいた。心より感謝申し上げたい。

202437日)