楽寂静ノート8:夏休みを取り戻そう

 今年の夏も研究室恒例の壱岐旅行を楽しんだ(フォト5)。私がはじめて壱岐を訪れたのは、大学2年の夏休みのことで、壱岐は勝本出身の同級生を案内役として、数名の友人らとともにフェリーで郷ノ浦港にテント持参で上陸した、今から34年も前のことである。その時は、食糧と飯盒をリュックにつめて、壱岐を2日間かけて徒歩で一周した。壱岐の北端にある辰の島という無人島には、紫水晶の原石が転がり、周辺の浅瀬は底まで透き通っていた。さらに対馬へ渡り、上対馬の美しい砂浜のある小さな入江(井口浜)でキャンプして、そこで釣ったキスを焼いてたらふく食った。近くの小高い山(千俵蒔山:せんびょうまきやま)に登ると、山頂にはデッカ塔と呼ばれる電波塔があって、水平線のかなたには、韓国を影絵のように望むことができた。遠い昔、防人たちが故郷を思いつつ、国境警備に従事した地でもあった。

 

夏休みには、感動的な経験をすることがある。上述の対馬旅行の際に、通りすがりのおばさんが、私のリュックに詰め込んだスノーケルや足ヒレを見て、「これから、かずきなさると?」と声をかけた。一瞬、戸惑ったが、「はい、潜ります」と答えた。高校の古典の時間に学んだ「かずく」が、「水中に潜る」の意味であることをとっさに思い出したのである。高校1年の時、古典の先生に褒められて古典が好きになった経緯があったのである。翌年の夏には、与論島でキャンプした。目の前を図鑑で見覚えのある巨大なチョウが、まるで折り紙が風に舞っているように、優雅に羽ばたいて飛んでいった。はじめて目にするオオゴマダラであった。海には、伊勢海老にも負けないくらい大きなヤドカリや野球バットに使えそうなナマコが住んでいることも知った。店先で売られているアイスクリームは、内地のものより10円増しだった。

 

現代の学生は、有意義な夏休みを過ごしているのだろうか。8月が過ぎようとするある日、週末に台風が接近することを知った九大生の娘(理系)が、「夏休みが消えて行く。」と嘆いていた。九大を含む地方国立大では、7月末まで講義があり、翌週から前期試験がお盆前まで続くため、現実的には立秋を過ぎてからの夏休みとなる。「風の音にぞおどろかれぬる」の季節になってから、海山で心身を鍛えよと言われても無理がある。一方、東大生の息子(理系)は、7月中旬には定期試験のほとんどを終えて、長野、伊豆、札幌と移動しながら、クラブ活動の名目で心身を鍛えつつ夏休みを享受している。彼の受講した前期の講義は、12回で組んであるとのことであった。九大生は、3回分も多く講義を受けていることになるので、かなりの教養を積み、学問通となるのであろうか。

 

先日、生化学 I の試験を採点していると、「出席点は、どの程度加味されるのでしょうか」と生物学科の1年生が尋ねてきた。もちろん、ある程度は加味している。しかし、当該の科目内容をいかに理解しているかが、評価の中心ポイントであることは外せない。私の学生時代には、語学を除いて出席点などなかったし、そもそも加点など期待もしていなかった。私は講義に熱心な学生ではなかったが、遊んでばかりいた夏休みであっても、講義の中で紹介してもらった本や教科書類をバイト代で手にいれて、難しい文章や内容を暗記しては、なぜか学問が身についた気がしたものである。いまでも当時の本が、私の教授室の本棚にぼろぼろになって鎮座している。本来、大学は、講義室で受動的に学問を教わる場所ではなく、講義をひとつの機会としてとらえ、自主的に学問するところではなかったか。そういう意味では、講義の回数など問題にすらならないはずである。学生諸君、真夏の太陽の降り注ぐなか、体力の続く限り活動し、学問できる夏休みを取り戻そうではないか。

2011年9月1日