楽寂静ノート25:リッキー君に教わったこと

 8年前のこと、北九州市で生後数か月の4匹の野良犬の兄弟が保護されて、その一匹を里親として引き取ったのがリッキー君である(フォト12)。私にとっては4代目の飼い犬である。こどものころに、「犬が餌を食べている間は、野生にもどり狂暴になるので、慣れた飼い犬であってもさわらないように」と母に教わったことを覚えている。ところが、リッキー君の食事行動はこの規則の範囲外であり、彼に餌を与えてその場を離れると、すぐに鼻を鳴らし始める。「一緒に食べよう」と誘うのである。その日の留守番の頑張りを褒めてもらい、撫でてもらわないと食が進まないのである。私はこれまでこのような犬に出会ったことはない。

 

 先月来、娘一家に誕生した孫の世話のために家内が出かけて行ったので、私が料理や洗濯、掃除など家事に忙しく立ち回っていると、リッキー君は一緒に食事をしようと誘わなくなった。不思議に思っていたが、餌を食べ終わったリッキー君の視線を感じて、そばに行ってみると、大喜びで餌袋をたたいて、餌の追加を要求したのである、一緒に食事しようと。撫でてもらって追加の食事を済ませると、リッキー君は満足して寝床へ戻っていった。私が家事に忙しいのに気づいて、いつものルーティーン行動を遠慮していたのだろう、気遣いのできる犬である。

 

 1万数千年前の縄文創成期には、縄文人はイヌと共同で狩猟生活をしていたという。おそらく狩猟に参加したメンバーやイヌだけでなく、老人や幼児まで含めた家族全員で車座に集まり、互いの活躍を賞賛しつつ、獲物を分け合って食事する楽しさを共有していたに違いない。日々物を食べることは、地球上に生きる生物にとっては必須ではあるが、その本質は、寂しくむなしく思える行為である。少ない獲物であっても、家族みんなで分配し、ともに食べることによって得られる満足感と充足感を共有することこそ、「毎日を楽しんで生きること」の基本であることを、ヒトもイヌも理解していたはずである。その記憶が遺伝子の奥底に潜んでおり、時として現代のイヌの行動に現れるのかもしれない。

 

 この1年はコロナ禍で個人の日常生活だけでなく、社会全体が閉塞し、生き辛さを感じている方が多くおられることであろう。こんなときこそ、身近な人や動物と食事をともにして、ささやかな楽しみを共有することが、日々を生活する上で最も重要な要素のひとつであることを飼い犬のリッキー君に教わったのである。

2020年12月24日