楽寂静ノート7:世代を超えて引き継がれるもの

 6月13日、母が急逝した。講義が終って一息ついていた時に、長兄から母が病院へ搬送されたとの連絡が入り、翌日、帰郷してからわずか5日目のことであった。昨年の12月、親父の13回忌を終えてから、「父ちゃんの17回忌までは元気でいるぞ」というのが、母の口癖であった。生来、母は大病も少なく、根っからの陽気さと、優しさで半世紀以上にわたり家族を精神的に、そして経済的にも支えてくれた。今年の春休みに帰省した際にも、「大学の先生の給料では、家族をやしなうことも難儀であろうから」と米やみそ、果物、野菜類を自動車のトランクいっぱいに詰め込んでくれた。感謝の一言に尽きる。

 

 私は、高校生の時から下宿生活を始めた。それ以来、赤い公衆電話が、薄緑の固定電話になり、そして携帯、アイフォーンと移り変わっても、日曜日には、地球上のどこにいても必ず「母ちゃん、元気ですか~」と電話してきた。そういえば、一度だけ日曜日に電話をかけ忘れたことがある。1991年の2月末に、2年間の米国留学から帰国した時のことである。成田空港で実家に帰国の連絡をした後、私は1週間ほど福岡のホテルに滞在しながら、引っ越し仕事で忙殺され、日曜日の感覚を失ってしまっていた。母は、日曜日の電話連絡がなかったので、私の家族が「拉致されたのではないか」とたいへん心配したそうである。そして、先週の日曜日、私はついに実家に電話をかけることはなかった。

 

 私が学位を取得して、運よく大学の助手に採用されたころ、親父がとても喜んで地元の海沿いの旅館で親族を集めて宴会を開いてくれたことがある。親父は「おまえの給料は、町役場に勤務している高卒の同級生よりも安いぞ、彼らの何倍も勉強したのになあ」とこぼしていた。けっして嘆いたわけではないのだが、母にもその時の言葉が記憶されていたのかもしれない。いづれにしても、長年の両親の絶大なサポートなくしては、現在の私は存在しない。少しは両親を安心させられるような人間に成長したのだろうか。

 

 大学院生だった私に、親父は「おまえは、好きなことをやっていればいいのだ、しばらくは就職など探さなくてもよい」と電話口で言ってくれた。いつだったか、母は「親から受けた恩は、親に返す必要はない。自分の子供にその恩を返せばよい」と哲学者のように語っていた。今となっては、世代を超えて引き継がれる何よりの「救いの言葉」となった。ありがたくも、寛大で辛抱強い両親のもとに生まれたことに心から感謝したい。その大恩は、娘、息子、さらには研究室の学生という子供たちに返していかなければならない。

2011年6月24日