楽寂静ノート26:革新をもたらすリーダーには有能なブレーンが必須である

 先週末、九州大学理学部同窓会の特別事業の一環として、九州縦貫自動車道の広川インター近くに位置する岩戸山古墳、および隣接する岩戸山歴史文化交流館を訪問した。前同窓会長であった小生が提案し、SARS-CoV-2の蔓延するなか3年越しでようやく11月12日に実現できたものである。その際に、大和朝廷や地方豪族とそれを支えた頭脳集団について、ひいては現代のリーダーとそのブレーンの重要性まで想いを馳せることとなり、楽寂静ノートにはこれまでにない長文となった。

 

 岩戸山古墳の被葬者は、筑紫君磐井(つくし/ちくしのきみいわい)である。5世紀前半から6世紀末かけて福岡県の八女地方には筑紫国があって、磐井の時代に最盛期を迎えた(文献1, 2)。筑紫国は、周辺の肥国(ひのくに)、豊国(とよのくに)らと婚姻関係で結ばれた連合王国を形成しており、八女地方だけでも10基を超える大型の前方後円墳が現存している。例えば、磐井の祖父の嶽八女(たけやめ)の石人山(せきじんさん)古墳、磐井の子である葛子(くずこ)の乗場(のりば)古墳などである。しかし、父である隈井(くまい)の古墳は、岩戸山古墳の西側に位置していた神奈無田(じんなむた)古墳とされるが、すでに消滅している。

 

 磐井の系譜をみると、隈井の妻のひとりは新羅王の妹である紫雲媛(しうんひめ)であり、磐井の母でもある(文献1)。紫雲とは、レンゲソウを意味する紫雲英(しうんえい)に由来し、紫雲姫によりレンゲソウの種子が筑紫国にもたらされ、貴重な田の肥やしとなった。筑紫国は、農業生産力が向上するとともに、須恵器の製造、朝鮮半島との交易により豊かな財力を保有し、漢字を用いた法律が制定されていたという。事実、岩戸山古墳には別区が円墳部に付随しており、そこに当時の裁判の様子を示す石像(裁判官、罪人、猪など)が置かれている。実は、筑紫連合王国は、子弟(豪族の王子)を大和や新羅へ留学させており、筑紫連合王国のブレーンは、これらの国際感覚を身に着けた有能でかつ勇猛な若き王子たちであったことは想像に難くない(文献1)。

 

 一方、大和地方では天皇家(大王:おおきみ)を中心として物部(もののべ)氏、大伴(おおとも)氏、平群(へぐり)氏、蘇我(そが)氏などの有力豪族の連合政権により、九州北部から関東の地方豪族をゆるやかに従属させていた。当時の大和朝廷の中心的なブレーンは、百済系豪族である大伴金村(おおとものかなむら)である。武烈天皇(25代・在位:499-506)が没すると、金村に擁立された越前国の男大迹王(おほどおう:15代応神天皇の5世孫)が、507年に河内国の樟葉宮(くすはのみや)で継体天皇として即位した(26代・在位:507-531)。しかし、大和の豪族たちの反対により大和に入ることができず、526年になってようやく大和入りを果たした。

 

 大和朝廷は継体天皇の代においても、金村の暗躍により百済重視の朝鮮半島政策を継続し、任那(みまな、あるいは伽耶)の四か国の百済編入を承認したため、新羅との関係がさらに悪化することとなった。磐井は、任那諸国を援助しつつも新羅との交易も継続していたため、朝廷との対立が際立ってきた。新羅が任那諸国に侵入したため、527年、継体天皇は任那諸国を回復するために、近江毛野(おおみのけの)率いる6万の朝廷軍を派遣しようとした。その計画を知った新羅は、磐井に朝廷軍の妨害を要請し、磐井軍は朝鮮半島への海路を封鎖して朝廷軍の進軍を阻むことに成功した。しかし、翌年、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の率いる朝廷軍と筑紫三井郡で交戦し、磐井軍は敗北したとされる。この一連の戦いが磐井の乱である(文献1-3)。

 

 磐井の子である葛子は糟屋の地を大和朝廷に献上して罪を免ぜられ、528年には糟屋屯倉(かすやのみやけ:屯倉は大和朝廷の地方行政組織)が置かれた。しかし、磐井の乱の後も筑紫一族は前方後円墳を築造していることから、実際は筑紫王権と大和朝廷は和睦を結んだと考えられている(文献1、2)。なお、大和朝廷の朝鮮半島外交における百済一辺倒は、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いまで続き、日本に多大な経済的人的損害を及ぼしたことは周知の事実である。思考が偏重したブレーンのもとでの一国重視の外交がいかに危ういかを思い知らされる。

 

 ところで、九州最大の前方後円墳は、宮崎県西都原(さいとばる)古墳群にある女狭穂塚(めさほづか)古墳(墳丘長:176 m)であり、国内最大の帆立貝形古墳である男狭穂塚(おさほづか)古墳(墳丘長:176 m)に隣接している(文献4)。男狭穂塚と女狭穂塚の被葬者は、それぞれ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とその妻の木花開耶姫(このはなさくやひめ)と伝承され、その曾孫が第1代神武天皇である。木花開耶姫は、瓊瓊杵尊が霧島の地に降り立った際に、地上の神(国津神の大山津見神)から差し出された娘であり、天津神と国津神の子孫が天皇家への系譜となっていることが古事記や日本書紀に記載されている。両古墳の築造は5世紀前半と推定され、現実的年代とは一致しないが、宮内庁管理下の陵墓参考地となっている。現実味のある一説では、男狭穂塚は諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)、女狭穂塚は諸県君牛諸井の娘で16代仁徳天皇(4世紀末-5世紀前半)の妃、日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)の墓とされている(文献4)。

 

 当時の南九州には、大和朝廷への従属を拒む隼人族をはじめとした地方豪族が跋扈していたはずであり、おそらく古事記(712成立)や日本書紀(720年成立)により、地方豪族と天皇家が姻戚関係にあることを明示することで、その後の不必要な戦争を避けて両者を和睦へ導いたのではないかと素人判断している。記紀成立当時の天皇は、元明天皇(43代・在位:707-716)であるが、先帝の天武天皇(40代・在位673-686)・持統天皇(41代・在位:690-697)・文武天皇(42代・在位:697-707)に渡り、その全期間を通してブレーンとして活躍したのは藤原不比等(ふじわらのふひと:659-720)である。記紀の成立の裏には不比等の優れた政治手腕があったはずである。

 

 3世紀中頃の大和の纏向(まきむく)に、最初の前方後円墳である箸塚(はしづか)古墳(被葬者は7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命 やまとととひももそひめのみこと)が築造されたことをもって古墳時代の始まりとし、7世紀中頃まで大和朝廷の勢力下にある国内諸地域や朝鮮半島南部で数多くの前方後円墳が築造された(文献5)。しかし、646年、大化の改新の一環として「薄葬令」が発布されたことで、古墳は小型化して簡素化されるとともに前方後円墳の造営は途絶え、古墳時代は終わりを告げる(文献6)。大和朝廷だけでなく地方豪族たちは、財政難や人材不足のなか法律という建前を作ることにより、ようやく古墳造営という重責から解放されたのである。この政治改革の有能なブレーンは言わずと知れた中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足、蘇我倉山田石川麻呂などである。 

【参考文献】

1)太郎良盛幸(原作)・鹿野真衣(作画)「筑紫の磐井」、新泉社(2014)

2)柳沢一男 シリーズ「遺跡を学ぶ」(094)筑紫君磐井と「磐井の乱」・岩戸山古墳、新泉社(2014)

3~6)ウィキペディア「磐井の乱」、「男狭穂塚・女狭穂塚」、「箸塚古墳」、「薄葬令」

令和4年11月15日