曾祖父の決断

 亡き父から引き継いだ家系図の写しが私の手元にある。私の曾祖父にあたる篤敬の説明には、「傳永ノ次男家部相続ノ予定ナリシヲ(次男家の当主・傳永篤永の急死のため、曾祖父が相続する予定であった)、兄喜左衛門早死ノタメ、本家相続シ、西郷南洲ノ私学校ニ学ビ後、西南ノ役ニ従軍。コノ頃伝家ノ宝刀等、多ク紛失ス」とある(フォト21)。15年程前、私はある家系図作成ソフトを購入して、この家系図に入手可能なすべての戸籍情報を加えた。現在では私の家族を含む総勢150名からなる川畑家の系図となっている。

 

 曾祖父が従軍した日本最大・最後の内乱である西南ノ役は、明治10年(1877年)2月17日に薩軍(13,000名)の進軍により開始された。しかし、同年3月4日の田原坂の戦いで薩軍は敗北し、9月24日には鹿児島の城山に本陣を置くが(370余名)、明治政府軍(官軍)の総攻撃を受けて壊滅状態となり、西郷の自刃で戦いは終わっている(薩軍行軍・敗走の図:外部リンク2)。西南ノ役当時、曾祖父は34歳であった。私が中学生の頃、父に曾祖父の西南ノ役の戦後について尋ねたことがあった。父は、「戦死したものとあきらめていたところ、西南ノ役の後しばらくして、すべての武具を捨て、農民の恰好をして帰郷したと聞いている」と話してくれた。

 

 曾祖父は、いつの時点で薩軍を離れたのであろうか。2018年のNHKの大河ドラマ「西郷どん」を見ていた時のことである。薩軍は田原坂の戦いから九州各地を敗走し、ついに西郷が薩軍解散を布令して、兵たちに帰郷を促すシーンがあった。まさに、私の疑問が解けた瞬間である。「薩軍行軍・敗走の図」を見ると、1877年8月16日、延岡市の北に位置する俵野(ひょうの)長井村の児玉熊四郎宅において、薩軍の全軍解散が布令されたとある。おそらくこの時点で、曾祖父は帰郷を決断し、武具を売り払い、農民の着物を購入して、官軍による残党狩りを避けながら、必死の思いで帰郷したのであろう。事実、曾祖父は6男1女をもうけ、81歳の天寿をまっとうしている。

 

 「勝てば官軍 負ければ賊軍」という言葉が、戊辰ノ役(1868~1869年:人的損害:新政府軍3,556名、旧幕府軍4,707名)の後に生じたという。しかし、西南ノ役における官軍と薩軍の戦死者は、それぞれ6,800名と5,000名である。官軍は、薩軍以上に人的損害を受け、結果的に、双方で11,800名の有能な人材を失ったのである。陸軍大将としてたいへんなカリスマ性のあった西郷南洲(フォト22)、さらにはその取り巻きの気の荒そうな重臣たちの存在があったにもかかわらず、最後の城山ノ戦いに参陣することなく、帰郷を選択した曾祖父の決断がいかほどのものであったのかは知る由もないが、一末裔としてその決断に感謝するとともに、心からの敬意を表したい。鹿児島市で学会が開催された際には、薩軍兵の眠る南洲墓地に参拝している。なお、南洲を慕う庄内藩士数名も西南ノ役に加わり、南洲墓地に埋葬されている。

(2023年12月15日)