楽寂静ノート19:大学グローバル化の中で日本人学生は何をすべきか

 大学のグローバル化が声高に叫ばれて久しい。先頃、九大は文科省策定のスーパーグローバル大学トップ型のひとつに選定された。九大は国際教養学部を新設し、特定の学部に国際コースを設置して、大学ランキングの100番以内を目指すらしい。今後10年間は、毎年3億2千万円が交付されるらしいが(読売新聞10月25日付)、理学部の教務責任者に伺うと、本理学部国際コース向けの経済的支援は期待できそうもない。トップ型の目的と期待は、選定大学がさらなる国際競争力を我がものとし、海外の主要大学との研究競争に勝ち抜くことであろうが、現況では、受験を控えた高校生が、予備校の全国模試で100番以内を目指して勉学に励むという覚悟の方が、はるかに有意義で実質的であり、将来的な国益を生み出すように思えてくる。

 

 大学ランキング制度は、英語母国語・公用語圏の大学を基準とした評価法であり、公明正大な査定のようで、その実、幕末に欧米列強と締結した条約に匹敵する不平等さである。西南ノ役が勃発した明治10年に設立された工部大学校(東大工学部前身)の規則には「諸学科ヲ教授スルニ、概ネ英語ヲ使用」とある(斎藤兆史:英語達人列伝、中公新書)。一方、九大の国際コース構想には、「卒業単位の50~75%は、外国語による単位を目安」とある。一世紀半近く時が経過しても、何ら進歩の見られない一文である。今日、国内の教育・研究者の努力によって、日本語による専門書、さらには正確に訳出された洋書や解説書等が適正の価格で数多く上梓されている。限られた時間で、母国語で最新の情報を得られる学問環境がすでに国内に整っていることを認識する必要がある。また、向学心旺盛な学生に対しては、高額な費用を払い、時に身の危険を冒してまでも留学せずとも語学鍛錬が図れる本物の施設が必要である。

 

 平成11~17年、札幌医大の講義の一部を担当した際に、北大の博物館によく足を運んだ。博物館は札幌農学校の企画で始まり、新渡戸稲造、内村鑑三ら名だたる卒業生の資料で溢れている。中でも驚くのが英語で書かれた受講ノートである。日本語でもこれほどの高い完成度の受講ノート作成は不可能である。後に、それは担当教師による添削済みの受講ノートを清書したものであることを知った。札幌農学校は米国農科大学の分校に等しいと言われたほど、有能な教授陣で構成されていた。学生らの日々の研鑽もさることながら、受講ノートを添削した外国人教師たちの労力はいかほどのものであったろうか。札幌農学校のような環境で学業を積めば、だれでも新渡戸らと変わらぬ英語力を習得できるかのように思えるが、それは幻想に過ぎない。新渡戸らは、入学時には外国人教師による講義をほぼ正確に書き取る能力を持ち合わせていたという(斎藤兆史:同上)。彼らは幼少より藩校や私塾、ひいては官立の外国語学校において、語学のみならず理科・数学等の高等教育を受けた若者から選抜された超エリート集団である。このような選抜エリート教育なくして、明治の国際人の輩出は望めなかったに違いない。

 

 私の研究室でやれることは、これまでもそうであったように、海外の一流研究者らと互角に討論できるほどの研究データを得て、原著論文をものにすることしかない。救いは、自然科学の英語原著論文は、一定のパターンで構成され、使用される単語も限られていることである。海外特別研究員の頃、確か、English presentation for non-native speakersと銘打ったUWの夜間クラスを有料受講したことがある。ある時、私の発音は大丈夫かと尋ねたら、女性教師は「英語の発音専門の教師を紹介しよう、特別の訓練が必要だ」と答え、またある時、小数点以下の数字は単数か複数かと尋ねたら、「それは私の夫の専門であるから、彼に聞いてみよう」と答えた。専門家を尊重する姿勢に少なからず驚き、本物の教育に触れた気がした。ましてや日本の学部教育にあっては、non-native speakersによる英語専門科目や英会話クラスなど極力避けるべきであろう。この四半世紀の間、休日返上、青息吐息で大学の教育・研究者として生き抜いてきた身としては、昨今の大学教育のバカ高い理想と現実との乖離を痛切に感じる。

2014年11月18日