楽寂静ノート24:独自の文化の成立と継承

 来月には「平成」が「令和」に改元される。「令和」は、万葉集の巻五・梅花の歌三十二首の序文、いわゆる「国書」を典拠としている。そのため、梅花の宴(730年:天平2年)を開催した大伴旅人(665~731年)の宅地跡(太宰府市坂本八幡宮)には大勢の観光客が押し寄せ、「平成」は花曇りのかなたに消えてしまいそうな繁盛を見せている。元号は大化の改新(645年:大化元年)より継承されてきた文化であり、改元の度ごとに人々に夢や希望を与えてきた。万葉集は日本最古の和歌集ではあるが、典拠された序文は漢文(外国語)で表現されている。万葉集成立から約200年後の「やまとうたは・・・」ではじまる古今和歌集(905年:延喜5年)の序文、すなわち紀貫之(866~945年)の決意表明ともいえる仮名序は、紀淑望(?~919年)により漢文に訳され、真名序として古今集に列記されている。漢文のもつ魅力にはあらがえなかったのであろう。事実、西郷隆盛や幕末の志士が揮毫した漢文・漢詩は「開運!なんでも鑑定団」においても驚くほどの高値が付けられている。

 

 京都帝国大学の東洋史学の教授であった内藤湖南(1866~1934年)によると、日本独自の文化といえるものは、室町時代の応仁の乱(1467~1477年)以降にその源流があり、「大體今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身體骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」(日本文化史研究「応仁の乱について」講談社文庫)とある。10年にも及ぶ応仁の乱の戦禍により、京都は文物とともに灰燼に帰したが、一方では、その後、独自の日本文化を育む契機ともなったというのである。湖南先生の独特の過激な言い回しではあるが、慧眼といえよう。将来的には芭蕉(1644~1694年)の風雅な一句から典拠された元号があってもよいのではないかと思えてくる。

 

 先月末、墓参の道すがら鹿児島の国分で高速道路を降り、かねてから気になっていた上野原(うえのはら)遺跡を訪ねた。上野原遺跡は、縄文早期(12,000~7,000年前)の日本最古の定住集落を含む複合遺跡である。有名な青森の三内丸山遺跡は、縄文前期(5,500年前)から始まる定住集落遺跡である。今から7,300年前、南九州に棲息していた動植物は、屋久島北西の海底にある鬼界カルデラの大爆発にともなう幸屋(こうや;指宿にある地名)火砕流とアカホヤ火山灰により壊滅状態になった(外部リンク5)。その舞台となったシラス台地に日本最古の定住集落遺跡が発見されようとは、だれが想像したであろう。なお、シラスは29,000年前の姶良(あいら)カルデラ火砕流堆積物である。上野原遺跡の発見は奇跡的であった。昭和61年(1986年)、工業団地の造成中にアカホヤ層よりさらに古い下層から、非常に保存性の良い土器・石器や52棟の竪穴式住居が発見されたのである。そのうちの10棟の竪穴内には9,500年前の桜島火山灰が見つかり、少なくとも10棟からなる定住集落が9,500年前に上野原台地に形成されていたことが判明したのである。

 

 上野原遺跡の「縄文の森展示館」には、原型をとどめている保存性の良い土器・土偶・石器があり、これらは単に生活道具としてだけでなく、「祭り」の際に用いられたと推定されている(フォト18)。シカ・イノシシを燻製にした連穴土坑も発見されている。また、上野原の縄文人は犬を大切にしていたようで、集落を再現した模型には子供と犬が戯れている。犬は狩猟における重要な一員だったのであろう。一方、長崎壱岐の島にある原の辻遺跡には弥生人が犬を食べていた痕跡がある。発掘された遺物のなかで、私が最も驚いたのは角筒形土器である(掲載写真の左側の2個)。薄造りの平底で四角形の土器の表面には、貝殻を使った繊細な模様が施してあり、その後の縄文土器と一線を画している。私は小学生のころ、実家近くの牧場にある畑から、戦時中の飛行場造成の際に出土したとされる縄文土器片を収集していたが(八合原遺跡)、その文様は、縄、渦巻、あるいは線状であり、角筒形土器に類似するものは皆無であったと思う。角筒形土器の継承は、鬼界カルデラ大爆発で途絶えてしまったのであろうか。文化の継承は、まことに危うい基盤の上に成り立っている。 

2019年4月4日