楽寂静ノート22:桜の花を愛でること

 例年になく桜の開花が遅れていたが、ようやく自宅近くの公園のソメイヨシノが満開となった。伊都の九州大学新キャンパスには、自慢の桜の木は一本も見当たらず、研究室の皆でカラスの襲撃を受けつつも、風の吹きすさぶ校庭の片隅(キャンパスコモンというらしい)でBBQパーティをやった。かつて箱崎キャンパス工学部にあった、あの桜の木々は伐採されることなく、今年も花を咲かせているのだろうか。いつの頃だったか父母に連れられて、神社の境内で開催されている桜祭りに行った。肌寒い桜の木の下で、ドンチャンさわぎの宴会を開いている大人たちを眺めながら、なぜ桜を愛でるのか不思議に思ったことを覚えている。その後、小・中・高・大学生と進むにつれて、入学や卒業式の思い出には必ず桜の風景が重なり、今では桜の開花を待ち望んでいる。「さまざまの 事おもひ出す 桜かな」という芭蕉の句がある(蕉翁句集)。この句が平易でありながら、しみじみと情景が広がり、懐かしく涙を誘い、深く心に響くのは桜のせいである。

 

 柿本人麻呂(660~724)から良寛禅師(1758~1831)までの桜を読んだ歌や句をあげてみると、「桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰れかもここに 見えて散り行く」(柿本人麻呂:万葉集)、「世の中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし」(在原業平:伊勢物語)、「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町:古今集)、「吹く風を 勿来(なこそ)の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな」(源義家:千載集)、「行き暮れて 木(こ)の下陰を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」(平忠度:平家物語)、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」(道元禅師:傘松道詠集)、「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」(西行法師:山家集)、「白雲の 春は重ねて たつや山 をぐらの峰に 花にほふらし」(藤原定家:新古今集)、「花に遠く 桜に近し よしの川」(与謝蕪村:蕪村句集)、「夕桜 家あるひとは とく帰る」(小林一茶:享和句帳)、「形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじば」(良寛禅師:八重菊日記)とある。眺める桜が変われども、時空をこえて、喜び・はかなさ・寂しさ・なつかしさ・永続性といった価値観が一貫している。

 

 ここに詠まれている桜の多くは、ソメイヨシノではない。ソメイヨシノは、江戸は幕末のころ、駒込の染井村の植木職人が、エドヒガンやオオシマザクラなどを原種として交配し、特定の一本を選んで接ぎ木により増やした園芸品種である。接ぎ木の台は、オオシマザクラ、あるいはアオハダザクラという品種が用いられるらしい。奈良吉野山の桜に因んで吉野桜と銘打って販売され、明治になって染井吉野と命名された。したがって、生物学的に言えば、ソメイヨシノは、すべて同一の交配木に由来するクローン植物である。交配種としては、確立されて200年に満たないであろう。

 

 サクラの語源は、日本書紀や古事記で登場する天孫降臨で知られるニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)に由来するとされる。野生型の桜は万葉の古来より日本の春の情景を彩ってきたが、園芸品種といえども、ソメイヨシノは千年をはるかに超える日本の桜文化と融合し、満開であっても、桜吹雪であっても、葉桜であっても、酒を飲んでいることも忘れて見入ってしまう。野生種に負けるとも劣らない迫力と生命観で日本人の価値観に深く浸透している。「銭湯で 上野の花の 噂かな」(正岡子規:寒山落木)、「九段坂 息づきのぼり ながめたる 桜の花は いまさかりなり」(若山牧水:白梅集)、花は間違いなくソメイヨシノである。桜が千年を超えて私たちの心に生き続けるためには、樹木本来の寿命だけでなく、文化による支えを必要としたのである。

2017年4月14日