楽寂静ノート5:生き物から真実を学びとれ

 通勤電車の中で、研究とは無関係の本を読むことが楽しみである。昨年のある学会で、東京慈恵会医科大学のM教授に久しぶりにお会いした。積もる話とともに、興味深い本をいくつか紹介していただいた。そのひとつが高木兼寛(たかきかねひろ:幕末の薩摩藩出身)の生涯を描いた小説、「白い航跡」である(吉村昭著 講談社文庫)。兼寛は、海軍の兵食を洋式に改革することで、脚気患者を根絶させた軍医(後に海軍軍医総監)であり、医療ボランティアや看護教育に尽力し、慈恵医大を創立した教育・研究者でもある。1888年には、日本最初の医学博士号を授与されている。

 

 イギリスの聖トーマス病院医学校に留学して、外科・内科・産科を身につけた兼寛は、脚気は欧米人には見られない日本特有の病気であること、日本海軍の艦船が外国の港に停泊中は脚気患者が皆無であること、その際に、乗組員が洋食を口にしていることに注目した。統計学を駆使したデータを用いて、協力者の少ない困難な状況下、海軍や政府の上層部を説得し、米食中心であった兵食を、パン(後に麦食)、肉類、野菜を主とする洋式へ改革することに成功する。兵食改革の著しい効果は、脚気予防試験をかねた遠洋航海で証明され、さらに、1883年の23.1%という海軍での脚気発生率が、洋食導入の2年後には1%以下に激減した証拠を挙げれば事足りるであろう。

 

 兼寛は、脚気の原因として、白米の糖質に対するタンパク質の不足を提唱した。しかし、海軍の兵食改革による脚気予防効果が明白であるにもかかわらず、その科学的根拠のなさから、ドイツ医学に傾倒する学者や陸軍軍医総監(森鴎外)らに徹底的に批判された。当時は、ビタミンの存在は知られておらず、白米崇拝の社会情勢もあった。その後も、陸軍では白米中心の兵食が続き、日露戦争では戦地入院数251,185名のうち、脚気患者は110,751名にのぼり、戦死者数(46,423名)をはるかに上回ったのである(Wikipedia:日本の脚気史)。この国家的災難は、当時の医学界の指導的立場にあった学者や陸軍上層部の者たちが、患者を真摯に診ることをせず、病因を当時最先端の基礎医学のみで解明しようとしたことに起因している。

 

 兼寛による脚気根絶の成功は、最も重要な医療や医学研究の基本が、患者を観察することにあることを再認識させる。研究対象や現象から真実を学びとることは、生命科学においても不可欠である。教科書からではなく、生き物や生命現象から、観察と実験を通して直に学ばなければならない。学生諸君、教科書をながめ講義を聞いているだけで満足することは止めよ。教科書は、夜中にこっそり読めばよい。書を捨てて実験しようではないか。「病気を診ずして、病人を診よ」とは、兼寛の名言である。兼寛の偉大な功績を顕彰して、南極大陸に「高木の岬」と名づけられた岬があるという。

2011年4月30日